こんばんは、とまじゅです。
先日、美濃橋についてのブログを書きました。
その時、美濃橋の近くにある上有知湊と川湊灯台を含む、川湊公園付近を歩きました。
上有知と書いて「こうづち」と読みます。
川湊というだけあってかつては船着場であったとのことです。
「湊」は船着き場のことだそうです。
実際に川湊公園を歩いてみて
川湊公園は小さな駐車場があり、乗用車2台までなら止めることができそうです。
道は狭く、車のすれ違いや歩行者には注意が必要です。
川湊公園一帯のシンボルは「川湊灯台」です。
木製の灯台で、いかにも歴史のありそうな姿でした。
実際に夜に灯すとどれくらいの明るさなのでしょうか。
長良川と「曽代用水」という2つの水の流れの間を歩きます。
この曽代用水という用水は世界灌漑遺産というのに認定されています。
歴史のある用水ですが、見る分には何の変哲もない用水でした。
川湊公園と書かれている緑地には特に何もありませんでした。
川湊公園を美濃橋方面へ行くと「前野渡舟場跡」という看板があります。
現在は、渡し舟の船着き場であった面影はありませんが、大正時代に美濃橋が架かる前は、重要な交通だったようです。
アクセス
川湊公園の史跡
川湊灯台
県指定史跡 上有知湊跡
慶長6年(1601年)金森長近が領主となり小倉山城を築き、城下町上有知をつくりました。その繁栄策として、ここの上有知川湊を開き、番船四十艘をおき、物資交流の要地としました。その後江戸時代は美濃国四大川湊の一つとして明治末年電車が開通するまで水運の要点でした。
この住吉灯台は水の守護神、住吉神社の献灯を兼ねて江戸末期に建てられ、夜毎川面を照らしていました。川湊の灯台として現存する全国的にも珍しい貴重な建造物であります。
前野の渡し
この渡し舟場は、室町時代から牧谷と上有知をつなぐ重要な通路であった。昔は下渡りに対して上の渡しといっていたと推測される。安毛から曽代に渡る道もあったが、前野に来てこの渡しを通り港町の坂を登り上条を経て上有知に入るのが近道であった。当時、上有知の町は上条の段丘下の低地にあったが、関ヶ原戦後、金森長近によって新城下町上有知が造られ、この渡舟場近くに上有知湊が開かれた。牧谷からこの町に通ずる渡し場と湊に沿った道路は大繁盛となり商店や茶店、船頭屋敷が軒を並べ、江戸時代から明治、大正まで上有知の盛り場の一つとなっていた。
明治の終わりに電車が開通して上有知湊が廃止となり、さらに、大正五年に美濃橋が出来て渡し場もなくなり、昭和の初期に隧道がつくられ、このあたりの繁栄も急速にすたれた。今では、わずかに狭いみちが昔をしのばせているのみである。
おわりに
今回は、岐阜県美濃市にある川湊公園付近について書いてみました。
長良川と小倉山の間に位置するこの公園は、特別観光するような雰囲気にはなっていませんが、歴史を感じさせてくれる穴場スポットでした。
かつて人々の暮らしを守っていた歴史ある灯台がこうして残っているのを嬉しく思います。
ではまた!!